加藤雄太のアートとその周辺

表現者である僕と言葉と

 僕はアートをやっているんだけれど、それこそ根っからの表現者らしい。だれでも出来るタスクを淡々とこなすようなことには全く興味がなく、ひたすら「自分には何ができるか」、「何を生めるか」みたいな事を考えているし、そうし続けていたい。観念して認めるけれど、凄まじく不器用。

 他人の素晴らしい表現を見るのも好きで、そういうのに触れたときには脳内でドーパミンがぶしゃぶしゃと出ているのを感じる。刺激を受けたいのだ。

 一方で、現在の僕は発表活動も抑え、SNSのアカウントこそあるものの、何か積極的に投稿しまくってフォロワーを増やしているわけでもない。ロム専ではないが、でもどちらかといえば、漁って刺激を受けられるコンテンツを探している。そんな日々。

 でもついに違和感が限界にきた。そう、僕は表現者なのだ。インプットは良いアウトプットを行うことを前提にするものだ。たとえ拙くても、大勢の目に触れなくても、それでもやっぱり何かを放出し続けたい。そう、たとえフォロワーが0でも、自分しか見ないクラウド上にこっそりあげるのでも、そんなことは最早関係ない。言葉が、写真が、絵が、僕を追いかけてくる。表現者であり続けよう。

 思えば、画家という自負が強烈に強かった20代は、『絵』以外に表現方法を求めることが逃げのような気がして、他のことが手につかなかった。でも、画家でなければならないって一体何なんだ?そんな声が自分の内から聞こえてきて、いよいよ無視できない大きな音になって迫ってきた。絵以外に表現したいことが、自分の内側から湧いてくるなら、その気持ちに素直になりたい。そう思えるようになるのに、とても時間が掛かった。でも、軽やかに自由でありたい。それは、表現に対する自分の姿勢においても、である。

 そういうわけで、この世にある多様な表現方法の内、『言葉』によるアウトプットの場として、ここにキーをタイプして刻んでいる。

 なるべく心に浮かんでくることに忠実に、まとまりがなくても、でもそれが湧いてきたリズムであるのなら、それを尊重したい。

 言葉以外にも表現したいことはたくさんある。それは、おいおい紹介することにしよう。

 言葉は僕にとって特別で、身近なものだ。

 絵描きではあるが、昔から自分をロゴスの人間だと自覚している。それは多分、周りもそう思っているだろう。どういうことかというのを一言で説明するのは難しいが、でも一つだけ言えるのは、どんな時も言葉は僕の中から意図も簡単に生まれてきて、口から音となって、或いは、指から文字となって出てくる。

 小説やアフォリズム、俳句や和歌の持つリズムや響きに何度捕らえられたことか。間違いなく、言葉というのは強い。

 言葉だけではない。表現というのは強い。たとえ自分が死んで消えても、優れた表現をしていたら、それは自分の生が終わった後も、この世界を生き続けるだろう。

 もう表現方法に変な固執を持っていない今、自由にその領域を行き来したい。

 絵に言葉を入れてもきっと素敵だ。写真に言葉も良いかもしれない。

 そんな自分の創作物を、ちょっとずつ置いていければと思う。

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