加藤雄太のアートとその周辺

作者性を消しつつも痕跡に身体性を出すということ

 作家が何かを生み出す過程が好きだ。

 作家によって手法は千差万別なわけで、十人十色である。完成作が素敵であればあるほど、その行程に興味がある。好奇心を大いにくすぐられる。

 これは、別に絵に限った話とかではなくて、ミュージシャンや映画監督、ファッションデザイナーや小説家など、クリエイティヴな人なら何でも当てはまる。将棋の棋士だってそうだ。

 「人の制作の過程を見たってしようがない。自分の手を動かさなきゃ。」確かにごもっともなんだけれど、僕の場合、この他人のクリエイションの過程が凄まじくアドレナリンをぶしゃぶしゃ出す装置というか、栄養になるんだから、どうしても無駄に思えない。

 10年以上前くらいは、テレビでよくそういった過程を見る機会があった。今ももしかしたらそういった機会があるのかもしれないけれど、僕がテレビを殆ど見なくなったから、実際どうなのか知らない。兎に角、もうあの頃貴重な映像を映し出してくれたブラウン管の箱とは、今のそれは違う。

 絵画に関して言えば、手技の痕跡にキュンとなる。あまり額装が好きではないのは、そういったところもあるんだと思う。絵の側面、一般的にはそこは画集などにも載らない、言ってしまえば「作品ではない」部分なのだろうけれど、そこにある絵具の垂れ、定着した支持体など、痕跡が僕を魅了する。

 勿論、絵の表面でもそう。下書きの鉛筆の跡、ブラシのストローク。削り取られた痕。身体性を感じる素敵な瞬間は、そういったところを見た時に訪れる。

 考えてみると、この感覚は普遍的なものなのかもしれない。

 例えば、写実画。昔の西洋絵画とは違う意味で、今や写実画が大人気なわけだけれど、もし写実画というものの技術が『完全に写真にイコール』まで来たら、たぶんそれは違うだろう。恐らく、超絶リアルで「本物みたい」でも、頭の中の理解のどこかでは「これは実際の光をそのまま定着させたものではなく、絵具が人の操る筆によって定着させられたものだ」と分かっているからこそ、惹かれるのだろう。

 ふと思うと、完成作は勿論だけれど、そんなにキュンキュンする程の興味を持つ創作の過程なら、その過程そのものを表現にできないかな。きっとできるな。表現手段に囚われたくない。もう自由にやっていこうと思ってこのサイトも立ち上げたんだ。それを見せられる場にしていこう。

 About me に、自分でも何者かよくわからない、みたいなことを書いたけれど、色々とやっていることバラバラで全然関係ないことも多く見えたりしたとしても、自分の中では「アートで表現したい」っていう核があって、全てはそれに繋がる文脈がある。ブレているようで全くブレてない。だから、過程を見せることも、その見せ方も、表現の一種。つまりは、そういうこと。

 この文章だってそう。僕はたぶん人並み以上に常に何か考えて続けてしまう、ちょっと異常なところがあって、たまに考えがまとまったり、思わぬ発想に至って自分でも嬉しくなったり、そんなことを繰り返しているんだけれど、一方でそういった頭の中に浮かんだモノたちは、どこかへふと消えていく。思いついてウキウキしていた、その温度とともに。その空いたスペースには、また次の思考が生まれてくるんだけれど、思った以上に覚えてなくて。

 誰かに伝えたいのかはわからない。でも、記録として残しておきたい。だから、とりとめもなく今日もキーを叩くのです。

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