僕が使っている二眼レフやハーフサイズカメラが映し出す写真の質感が好きだ。これはフィルムの持つノスタルジックな表情が好き、とかそういうことではない。それなら、別にデジタルでだって表現できるし、むしろデジタルの方が幅が広がってとことん作りこめるだろう。今日はこのことについて、ちょっと話してみよう。
作品として僕がフィルムカメラを選んで違和感なく表現出来ているのは、もともと絵描きってこともあって人一倍『見る』ということについて繊細に考えていたからかなと思う。
一言で言えば、デジカメは優秀過ぎるのだ。見え過ぎるし、意図的に選別出来て、作為的な表現を残せる。高すぎる解像度が、僕の視覚に合わない。無限にある現実世界の情報量の中から、光を通して我々の身体が捉え意識が「扱っている」解像度。そんな身体の持つ解像度の延長線上にあるもの。それをこそ求めていて、それを心地よく感じる。普通、日中に外で周りを見回せば、まぶしさに少し目を細めたり、明るいところから暗い所へ入れば、目が慣れるまで時間がかかり、暗いところから明るいところへ出れば目が眩み、そもそも何かを見るという行為自体も、集中して見ている対象以外は殆ど視認していない。視線の本当に中心部のみが意識に入ってくる。
そう考えると、ハーフサイズカメラのあの解像度の粗さは、なんとも我々人間の視野に入ってくる光線だったり雑念だったり集中力の欠如だったり目が疲れていてピントがいつもより合わないとか、そういった「本当の見る」という行為の延長線上に存在しているように感じる。
二眼レフについても、蓋を開けてあの覗き窓の中にある摺りガラスに、外からの光が仄暗くぼんやりとレンズの向こうの景色を映し出すのは、ゾクゾクするくらい「リアルな」視覚体験だ。
見ようとしている中心部しか見えていない僕たちの視覚のように、全てを見せてはくれない。その場で写りも確認できない。シャッターを切ろうと思った目の前の光景に対して、ちゃんと撮れたのか分からず、枚数に制限もあり、時に光にもてあそばれ。そんな『制限』や『非再現性』が、非常に肉体的で身体性を感じられるのだ。制限も非再現性も、むしろ豊かさを与えてくれる。
だから、僕としてはとても絵画に近い感覚を持っているのかもしれない。絵は、物理的な制約が沢山あるし、全く同じものをもう1つは作れない。絵画にも似ていて、視覚にも似ている。解像度の延長線。そんなことを思いながら、シャッターを切っている。写真家でもカメラマンでもない。それが僕のスタンスです。
だからね、現像からあがってきたのを見るのは、本当に楽しくワクワクする。まさに作品。僕にとって、もはやそこにあるのは表現であって、絵だとか写真だとか、そういったカテゴリー云々とか優劣はなくて、ただただしっくりくるもの。特にハーフサイズは撮れる枚数も多く、つまり36枚撮りのフィルムなら72枚撮れるわけだけれど、そうなるともう大半は何を撮ったか忘れていて、自分がシャッターを切った瞬間を追体験するのがとても面白い。忘却も記憶も、人間や芸術のすごく重要な要素。僕はもともとカラー(色)が好きだし、フォルム(形)より色彩の人なので、意図的にハーフサイズフィルムは、リバーサルフィルム(カラーポジフィルム)を使うようになった。すると、細かいコマ状に色のついたフィルムが現像から上がってきて、それはもう完全に記憶の断片を見ている感じで、その並びの偶然な隣り合い具合いが、たまらなくグッとくる。作為性のない偶然な表現手法がここにあった!そう興奮する。
きっともう、僕は今撮っているフィルムの像を覚えていない。現像から上がってきて、初めて自分の行動や意思決定のプロセスを再確認する。中には、光でつぶれて像が視認できないのもあるだろう。でも、目を凝らす。前後のコマから、記憶を手繰る。写った人物がブレている。人の視覚だってそんなものだ。全てが身体的。解像度の延長線。